言葉にする、つまり『言語化』ですが、
自分にとって少しニュアンスが変わったので、
気持ちが熱いうちに記しておこうと思います。

 

♦ 言葉になっていないことを言葉にすること

言語化とはそういうもの。

そう思っていました。漠然とでも。
まあ、その認識は間違っていません。

私の言語化の程度でいえば、
『言語化』というのは自分が知覚した全てのことを、

見て、聞いて、皮膚から感じた熱さや冷たさ、湿度、
空気の流れ、光の強さ、影の雰囲気、雑音も含めたモノ音、、などなど、

受けた刺激からの自分の反応を省約していただけでした。

要は、自分が五感全てで感じたことを“自分の言葉”にする時には、
どうしても取りこぼしていく状態になっていくのです。

余すところなく言葉にすることができない。

 

それでも、どんなに取りこぼそうが、
どんどん言葉にしていかないと次のステージにいけません。

これは言語化でいうところの赤ちゃんのハイハイのレベルで、
遠くにはまだいけないけど自分で動き始めた
「言語化の第一ステージ」といったカンジです。

 

♦ 言葉に追いつけない

次は、自分が受けた刺激に対して、
心がどう反応し、考えたかを言葉にするということ。

この部分を人と共有するのに、言葉は道具としてとても有効です。

それらは「思考」と呼ばれる部分で、
顔の表情やジェスチャーだけでは、
決して深く細かいところまで伝わらないから。

 

言語化ステージの赤ちゃんハイハイの次の階層は
<自分>という内の範囲から、
友人・知人と共有するレベル〜人類の叡智への貢献まで、
先は青天井のように感じます。

高いステージは、こうだと説明できるほどに
私が言葉に追いついていないから言葉にできません。。。

見たままを描けないとの同じように、
何かを感じて考えても、
なかなか人が共感してくれるほどまで言葉にできないものです。
(言葉の限界があるにせよです。笑)

何も思っていないのとは少し違い、
この細かな凹凸を描き出す筆を持っていないから、
乱暴にも太い筆でなぞってしまい
凹凸のキメが消滅してしまうカンジです。

そりゃあ、ピカソレベルの域に達すれば
すでに十分にその細かさを自分のものにしているからこそ
その細かなキメを描かずとも伝わるものを描き出せるでしょう。
ピカソのデッサン力は有名。)

でも、今の私は
その細かなキメを飛ばす段ではないのを自覚しています。

 

♦ シンプルは引き算ではない

「本当のシンプルは引き算ではなく足し算」
との言葉は、大御所アートディレクター大貫卓也さんです。
(眞木準氏/編集『ひとつ上のアイディア。』より引用)

もちろん足し算といっても、そのまま全部を足し算の式のように
羅列することがシンプルだと言っているのではなく、
伝えたいことの全部を合わせた上で、一つの答えを出すことがシンプルだと。

足し算というより“圧縮”に近いように感じますが、
明らかに難しそうですね。(笑)

言葉にもシンプルさを求めるにしても、
自分が持つ細やかなキメは、まず自分自身で言葉にしていかないと
それはゆらぐように表れては消えて、なくなってしまいます。

あくまでそこの部分は修練として人に見せなくていいのかもしれません。
デッサンを作品にはしないですものね。
(ダヴィンチやピカソは神だから例外。笑)

 

当たり前でしょうか?

当たり前ですよね。

当たり前だからこそ、自分で描く言葉をつづる必要があるのです。

 

【お知らせ】

土日祝祭日はブログ更新をお休みします。

週明け19日に更新しますので、
どうぞよろしくお願いいたします。

 

それでは今日はこの辺で!また来週

 

 

*** 今日の雑談 ***

夜にbarで囲碁を打ってきました。
楽しいには楽しかったんですが、
初心者にはお酒と一緒は難しいことがわかりました。
碁に集中するのがやはり難しくて…(^^;)
わかったことが収穫です。(笑)